かつて、自分自身には何も確固とした信念がないことを認め、何かすがるものがあったら、どんなに人生が楽になるか、と考えました。その後、神に背いていた自分のあり方を悔い改めて、真の神への信仰を持つようになった時、神を信じるということは何と確かで安心なことか、黙って背後で見守ってくれる父の足元で、安心して遊んでいる子どもであるかのような平安を得ました。
しかし、信仰による生活を積み重ね、そのような安心感はときに大きな波に揺られるときには、かきけされる経験をします。小さな波によっても、揺さぶられることしばしばです。こんな苦しみの中には神などいないのではないかと、平安は消えて孤独感を味わいます。素朴に「神よ、助けて下さい!」と呼びかけても無意味ではないのか、という不信仰な心がたびたび生じるのです。
救い主なる神イエスへの信仰を、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言い表した人物がいます。マルコの福音書9章に出てくる、長い間苦しんでいる息子を救ってほしいと主イエスのもとへ来た父親の、主イエスへの呼びかけです。この言葉には「信じます」という積極的な心と、「不信仰な私」という反対の心が言い表されています。
一見すると矛盾するかのように思われる、この父親の信仰の叫びは、聖書中で信仰を最もよく言い表したもののひとつだと言われています。自分自身の内側を見たら神への信仰を貫く一筋はない、しかし自分の外へ出て、神にそのような愚かな自分自身をそのままにゆだねる、そういう信仰の態度が示されています。
信仰とは、どんなことがあっても揺るがない信念を持つこととは多少ちがいます。信仰を持っていても、信仰者は揺れ動くことがたびたびあります。外から助けを与えて下さる神は決して揺れ動くことのない御方だ、だから不安定な自分をそのままに、外から差し伸べて下さる神の御手へ、自分の全てをゆだねる、というのが信仰なのです。信仰をもっていても、自分は強くならないままかもしれません。しかし、徹底的に神に信頼することの確かさは、深まっていくものなのです。