2012年5月9日水曜日

不信仰な信仰

かつて、自分自身には何も確固とした信念がないことを認め、何かすがるものがあったら、どんなに人生が楽になるか、と考えました。その後、神に背いていた自分のあり方を悔い改めて、真の神への信仰を持つようになった時、神を信じるということは何と確かで安心なことか、黙って背後で見守ってくれる父の足元で、安心して遊んでいる子どもであるかのような平安を得ました。
しかし、信仰による生活を積み重ね、そのような安心感はときに大きな波に揺られるときには、かきけされる経験をします。小さな波によっても、揺さぶられることしばしばです。こんな苦しみの中には神などいないのではないかと、平安は消えて孤独感を味わいます。素朴に「神よ、助けて下さい!」と呼びかけても無意味ではないのか、という不信仰な心がたびたび生じるのです。
救い主なる神イエスへの信仰を、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言い表した人物がいます。マルコの福音書9章に出てくる、長い間苦しんでいる息子を救ってほしいと主イエスのもとへ来た父親の、主イエスへの呼びかけです。この言葉には「信じます」という積極的な心と、「不信仰な私」という反対の心が言い表されています。
一見すると矛盾するかのように思われる、この父親の信仰の叫びは、聖書中で信仰を最もよく言い表したもののひとつだと言われています。自分自身の内側を見たら神への信仰を貫く一筋はない、しかし自分の外へ出て、神にそのような愚かな自分自身をそのままにゆだねる、そういう信仰の態度が示されています。
信仰とは、どんなことがあっても揺るがない信念を持つこととは多少ちがいます。信仰を持っていても、信仰者は揺れ動くことがたびたびあります。外から助けを与えて下さる神は決して揺れ動くことのない御方だ、だから不安定な自分をそのままに、外から差し伸べて下さる神の御手へ、自分の全てをゆだねる、というのが信仰なのです。信仰をもっていても、自分は強くならないままかもしれません。しかし、徹底的に神に信頼することの確かさは、深まっていくものなのです。

2011年5月19日木曜日

心の傾き

人間とは良いものなのか、それとも悪いものなのか、私たちの中でこの点について明確に答を持つ人は少ないのではないでしょうか。

「人間とは何か」という点について、聖書は“悪いもの”であると言い切っています。神は聖書を通して人間に対し、神を愛し、人を愛することが最も重要な教えであると伝えました。しかし、人間はそれができない心の傾きを持っている、と16世紀のある教会の文書では言っています。坂の上に置いたボールが、必ずその坂を転がり落ちるように、人間の心には「生まれつき、神と隣人を憎む傾きがある」(ハイデルベルク信仰問答 問5)ので、どうしても神になど信頼せず、人に対しても良くない思いを抱いてしまうのだ、と言うのです。

神に背く性質を、聖書では「罪」と言います。聖書を読むとたびたび、「あなたもまた、罪人です」と語りかけていることを聞くことになります。かつて第二次大戦後に多くの人が教会を訪ねた時代、まだ日本語が上手に話せない宣教師の方々から開口一番、「アナタハ ツミビトデス!」と言われ、とても嫌な気持ちで教会を後にしたという、半分笑い話のような経験を教会の先輩から聞きました。確かに嫌な言い方ですが、聖書の教えの中では大切なことだという意識ゆえに、宣教師の皆さんは真っ先に伝えたのでしょう。

時代は違いますが、わたしもまた学生時代に、聖書を読み始めた最初に「全ての人は罪を犯した」ということばに出会い、とまどいました。良い人間性を得たいと願って教会に来たのに、こんな言われ方したくないと思いました。嫌な表現だと感じると同時に、特に神に背くことがそんなに悪いことなのだろうか、と疑問にも思いました。信仰の先輩たちは、「神を知らないことも、神に背くことと同じことだと言えます」とも言われ、それも納得できませんでした。

しかし、「心が神と隣人とを憎む傾きがある」という指摘は、当たっていると思いました。良い生き方をしたいと願っているのに、他人のちょっとした言葉や振る舞いに、不愉快さや怒りを感じることはたびたびです。「気にしなければ良いのに」と、自分に言い聞かせても、何度も同じことでした。聖書の指摘を頭の片隅にしながら、いつの日かわかったのは、他人へのそのような思いは、自分が良いと感じるかどうかによって生じるのだということでした。自分自身の受け止め方が、他者の良し悪しを判断する基準なのです。おおげさですが、まさに自分が神に背いて、自分自身の判断が神のような絶対的なものとしているから、他者を悪と決め付けてしまうのだと、わかったのです。

残念ながら、私の心に確かに傾きがあるのです。しかし、神はそのようなみじめな心を持つ人間に、そのみじめさから救う道を用意してくださったのです。それが救い主イエス・キリストというお方です。どうぞ、「心の傾き」のみじめさ、悲惨さからの救いの道を、聖書を道しるべにして、知って頂きたいと思います。

2011年5月3日火曜日

わたしはよみがえりです。いのちです。

4月24日は、イースターと呼ばれる、教会にとって一年一度の特別な日曜日でした。救い主イエス・キリストの復活を祝う日です。この日の午後、多くの教会は墓地で墓前礼拝をいたします。多くのキリスト教会の墓石に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」という主イエスの言葉が刻んであるのを見ます。

信仰が与えられてから、私は一年に何度か墓地を訪れるようになりました。イースターの礼拝だけでなく、納骨をするためです。納骨のときには、墓前礼拝のような喜びはありません。親しかった仲間の遺骨を収めるので、喜びでなく、むしろ悲しいのが普通です。しかし、悲しみだけでない、という気持ちもあるのです。なぜなら、主イエスの言葉の恵みを思うからです。

多くの教会の仲間の死を見てまいりました。そのたびごとに、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という恵みが、信仰者すべてに与えられているのだ、と迫ってきます。人間はみな、この地上の生涯の終わりに死を迎えます。キリスト者も同じです。しかしキリスト者には、信仰によって主イエスと共に結び合わされて復活し、天の御国に入れられる、という希望があります。地上の死が終わりでないのです。たましいは常に神の御手に守られています。そして、私たちの体も復活し、御国に入れられる時があるという希望を信じているのです。

私自身、信仰に導かれてすぐの頃は、この言葉の実感に乏しいことでした。しかし、多くの信仰の仲間(先輩)たちが、地上の死を迎える苦しさや恐怖の中で、「私は信仰によって、イエス様と共に生きているから、苦しい重荷をイエス様に担っていただいているから、大丈夫なのですよ」と語られ、「みんなと地上での別れるのは寂しいけど、天国にイエス様とともに置かせていただく希望を、今、味わっていますよ」と語られました。病気を得て、弱くなる中での言葉でしたが、その聖書の言葉を信じているというだけで、これだけの希望をもって雄々しく生涯の終わりを迎えるおじいさん、おばあさんの姿に圧倒される思いでした。比較的若い方も、激しい苦しみの中でも、平安をもって最後の時を迎える尊厳さを示してくださいました。

そして、死の恐怖を越えているということは、将来の話ということだけでないのです。多くの心配ごとや、苦しいことを越えさせてくださる主イエスと今、共に生きている、という希望でもあるのです。キリスト者は、将来の天国のことを漠然と期待している人たちではありません。今、様々な困難があっても、主イエスと共に、その課題に取り組み続けることができるのだ、という確信が与えられている人たちなのです。見えない救い主を信じるという、その信仰さえも見えません。しかし、希望を持っているという確かさを持っている人たちなのです。

そのような信仰の豊かさを、多くの人に知ってほしいと願っています。どうぞ、教会をおたずねくださり、「信仰者が持っている希望について、教えて欲しい」と遠慮なくおたずねください。どこの教会でも、牧師や教会員が、救い主による希望を、喜んでお話しいたします。