2011年5月3日火曜日

わたしはよみがえりです。いのちです。

4月24日は、イースターと呼ばれる、教会にとって一年一度の特別な日曜日でした。救い主イエス・キリストの復活を祝う日です。この日の午後、多くの教会は墓地で墓前礼拝をいたします。多くのキリスト教会の墓石に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」という主イエスの言葉が刻んであるのを見ます。

信仰が与えられてから、私は一年に何度か墓地を訪れるようになりました。イースターの礼拝だけでなく、納骨をするためです。納骨のときには、墓前礼拝のような喜びはありません。親しかった仲間の遺骨を収めるので、喜びでなく、むしろ悲しいのが普通です。しかし、悲しみだけでない、という気持ちもあるのです。なぜなら、主イエスの言葉の恵みを思うからです。

多くの教会の仲間の死を見てまいりました。そのたびごとに、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という恵みが、信仰者すべてに与えられているのだ、と迫ってきます。人間はみな、この地上の生涯の終わりに死を迎えます。キリスト者も同じです。しかしキリスト者には、信仰によって主イエスと共に結び合わされて復活し、天の御国に入れられる、という希望があります。地上の死が終わりでないのです。たましいは常に神の御手に守られています。そして、私たちの体も復活し、御国に入れられる時があるという希望を信じているのです。

私自身、信仰に導かれてすぐの頃は、この言葉の実感に乏しいことでした。しかし、多くの信仰の仲間(先輩)たちが、地上の死を迎える苦しさや恐怖の中で、「私は信仰によって、イエス様と共に生きているから、苦しい重荷をイエス様に担っていただいているから、大丈夫なのですよ」と語られ、「みんなと地上での別れるのは寂しいけど、天国にイエス様とともに置かせていただく希望を、今、味わっていますよ」と語られました。病気を得て、弱くなる中での言葉でしたが、その聖書の言葉を信じているというだけで、これだけの希望をもって雄々しく生涯の終わりを迎えるおじいさん、おばあさんの姿に圧倒される思いでした。比較的若い方も、激しい苦しみの中でも、平安をもって最後の時を迎える尊厳さを示してくださいました。

そして、死の恐怖を越えているということは、将来の話ということだけでないのです。多くの心配ごとや、苦しいことを越えさせてくださる主イエスと今、共に生きている、という希望でもあるのです。キリスト者は、将来の天国のことを漠然と期待している人たちではありません。今、様々な困難があっても、主イエスと共に、その課題に取り組み続けることができるのだ、という確信が与えられている人たちなのです。見えない救い主を信じるという、その信仰さえも見えません。しかし、希望を持っているという確かさを持っている人たちなのです。

そのような信仰の豊かさを、多くの人に知ってほしいと願っています。どうぞ、教会をおたずねくださり、「信仰者が持っている希望について、教えて欲しい」と遠慮なくおたずねください。どこの教会でも、牧師や教会員が、救い主による希望を、喜んでお話しいたします。