2011年4月16日土曜日

いるべき場所にいない不安定さ

このたびの震災の影響により、原発に近い地域で生活していた方々は、危険回避のため、その地を離れるよう勧められています。慣れ親しんだ土地、生まれ故郷を離れることは、非常に辛いことだと想像します。

その悲しみを想像しながらも、被災地から離れた首都圏で生活している私たちも、放射能の影響を心配し、遠くへ疎開したいとの考えが浮かんでくることもあります。しかし、それが可能だとしても、どこまで行けば本当に安心できるのか、よくわからなくなることもあります。混乱しながら、ふと自分自身を見つめるならば、もしかしたら単なるエゴイズムでしか物事を考えていないかもしれないとも思います。厳しさを経験している人々のことへ思いを向けながらも、自分自身の生活を確保する都市部での生活の中、自分自身の思いが定まらない不安定さを味わうことも、このしばらくの間にたびたびありました。そのような思いにとらわれる方々が、少なからずいらっしゃったのではないかと思います。

数百年前からキリスト教会で語られ続けてきた、人間に関する表現があります。それは「人間は神の律法(=神の教え)によって、自分の悲惨さを知る」というものです。「悲惨」という強い語は、もともとは「故郷を離れていること」という意味があります。「故郷を離れ、不安定な状態であること」、あるいは「いるべき場所にいない不安な状態」ということを表しています。

ここでの「悲惨」は、人間のたましいについて、説明しています。人間は、あるべき場所にいない悲惨さがあるのです。本来のあるべき場所とは、人間のいのちを与え、人間を「神のかたち」に造ってくださった、まさに、神の御許です。もともと「神のかたち」ゆえに、神を思うことができ、神と密接な関係を持つことができるのに、自分の造り主である神から離れてしまっている状態が「悲惨」なのです。

前回、人間は「神のかたち」に造られているがゆえに、他者を助けたり慰める素晴らしさがあることを申し上げました。しかし一方、私たちはその素晴らしさを発揮できないことを日常的に経験します。どんなに善意で助けようとしても、空回りになったり、おせっかいになってしまうこともあります。残念ながら、人間の基準を用いても不完全さばかりの不安さでいっぱいになってしまうことがあります。自分の不安定さと、相手の不安定さとがかえって増幅するかのような時さえあります。

しかし、神の教えという基準に立ち返ることで、私たちは悲惨という不安定さを解消することができるのです。自分の中には不安定しかないが、外から安定を得ることができます。神の教えである聖書から、「神のかたち」である人間の歩むべき道を知ることができるのです。どうぞ、近所の教会へ足を運び、外から、確かな道を得ていただきたいと願っています。そうすれば、周囲がどんなに不安定だとしても、聖書によって歩むべき安定した道がいつも見えるのです。