被災地の復興を願って、多くのボランティアが彼の地へ向かう姿は感動的です。いろいろな社会問題の暗いニュースが多く、しかも大災害で真っ暗になりそうです。しかし、普通の人々の中に、こんなに多くの「困っている人を助けたい」という温かい、いや、熱いと言うべき自己犠牲的な思いがあることを目の当たりにし、こちらまでうれしく、明るくなる気持ちです。
キリスト者は、「人間は『神のかたち』に造られている」と理解しています。それはキリスト教信仰を持っているか否かに関わらず、です。神によっていのちを与えられているということで、人間は全て「神のかたち」に造られているのです。聖書の中で、創世記第一章に、端的にそう言われています。
大挙してボランティアの人々が東北へ向かっている姿に、「神のかたち」に造られた人間のうるわしさが見えます。人を愛する人間、苦しみを負う人の重荷を少しでも負ってあげたいと願う人間… ひとりが尊いのと同時に互いに助け支え合う尊さがあり、その根底には、神のただしさ、神の愛を反映する存在である「神のかたち」としての人間の性質があります。
聖書を読み始めた方々より度々受ける質問の一つに、「キリスト教は性善説ですか、性悪説ですか」との問いがあります。私は「その説にピタリと当てはまらないのでしょうが、聖書で言っていることは、『神のかたち』という素晴らしい性質を持っているのに、残念ながらその素晴らしさを失わせる性質をも持っているのが人間だ、ということです」と、よく答えます。
私たちは、互いを支え合う素晴らしさも経験しますが、互いを傷つけてしまうことも経験します。私は、その原因の一つは「自分が『神のかたち』に造られている尊さを十分に分かっていない」ということにあると考えています。「神のかたち」に尊く造られている人間が、自分の存在の意味を明確に分かるのは、造り主である神の意図を知ることによるでしょう。聖書は、神についてのみ記している書物ではなく、「人間とは何者なのか」という問いについても答える書物です。教会に足を運んでくださり、聖書から「神のかたち」に造られている、あなたの尊い存在理由を知って頂きたいと思います。