大災害があると、「なぜこんな悲惨な出来事が生じるのか」と多くの人が考えます。天地万物は神のものだと信じる信仰者もまた、「なぜ」という問いへの、明確な答えを見出せないこともあります。ただ被災者の方々の上に、神の慰めがあるよう祈るばかりです。
キリスト教信仰には、苦しみから免れるとする積極的な教えはありません。信仰があれば不幸な出来事にあわない、ということはありません。どんなに信仰に篤い人物でも、苦しみを経験することがあると、聖書は教えています。
私自身、苦しみのただ中にあるときに、「神様、なぜこんな辛い思いをしなければならないのですか」と問いかけます。しかし、その一方で思い浮かぶ聖書のことばがあります。
「神を愛する人々…のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」
―ローマ人への手紙8:28―
「すべてのこと」の中に、「苦しみ」もあるのだと、私は自分に言い聞かせます。ですから、この苦しみにも何か意味があるのかもしれない、そしていつか後の日に、「あの厳しい経験によって、神様が私に教えて下さったことがある」と思えるようになれる、と期待するのです。
神に信頼する者は「全ては運命なのであって、その中に自分は揺さぶられているだけだ」とは考えません。「この苦しみも益に変えて下さる神がおられる」という信仰によって、自らの人生に期待をもって歩みます。全てを用いて、信仰者の人生に益を与えて下さる神の配慮を、「摂理」と呼びます。信仰者は運命に縛られているのでなく、神の摂理という恵みに支えられていると信じます。
苦しみは誰にとっても苦しみでしょう。しかし、今はわからないけれども、この苦しみも良いものに変わるのだと信じるなら、耐える力も強まるでしょう。どうぞ、苦しみや困難への不安に負けないで下さい。すべてを益と変える神がおられることへ、思いを向けてください。