2011年3月31日木曜日

「運命に縛られない」

大災害があると、「なぜこんな悲惨な出来事が生じるのか」と多くの人が考えます。天地万物は神のものだと信じる信仰者もまた、「なぜ」という問いへの、明確な答えを見出せないこともあります。ただ被災者の方々の上に、神の慰めがあるよう祈るばかりです。

キリスト教信仰には、苦しみから免れるとする積極的な教えはありません。信仰があれば不幸な出来事にあわない、ということはありません。どんなに信仰に篤い人物でも、苦しみを経験することがあると、聖書は教えています。

私自身、苦しみのただ中にあるときに、「神様、なぜこんな辛い思いをしなければならないのですか」と問いかけます。しかし、その一方で思い浮かぶ聖書のことばがあります。

「神を愛する人々…のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」

―ローマ人への手紙8:28―

「すべてのこと」の中に、「苦しみ」もあるのだと、私は自分に言い聞かせます。ですから、この苦しみにも何か意味があるのかもしれない、そしていつか後の日に、「あの厳しい経験によって、神様が私に教えて下さったことがある」と思えるようになれる、と期待するのです。

神に信頼する者は「全ては運命なのであって、その中に自分は揺さぶられているだけだ」とは考えません。「この苦しみも益に変えて下さる神がおられる」という信仰によって、自らの人生に期待をもって歩みます。全てを用いて、信仰者の人生に益を与えて下さる神の配慮を、「摂理」と呼びます。信仰者は運命に縛られているのでなく、神の摂理という恵みに支えられていると信じます。

苦しみは誰にとっても苦しみでしょう。しかし、今はわからないけれども、この苦しみも良いものに変わるのだと信じるなら、耐える力も強まるでしょう。どうぞ、苦しみや困難への不安に負けないで下さい。すべてを益と変える神がおられることへ、思いを向けてください。

2011年3月25日金曜日

「不安と戦いながら」

「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。
…主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

―ヤコブの手紙5:11―

首都圏に暮らす私たちは、この度の震災による被災地の惨状を見て、想像を絶する苦しみの中にあろう人々のことに思いを注いでいます。何かをしたくてもできない。そのようなもどかしさを覚えている方もあろうかと思います。

そして、かの地と比較すれば平穏な場での生活ですが、それでも私たちには不安があります。ガソリンや食料がかつての平常時とは違って、容易に手に入りません。これだけでも私たちは多少なりとも不安になります。ひとりの小さな不安が、ひとつひとつ集って大きくなって力が増していくのだと、私たちは店頭から品物がすっかりなくなることで、はっきりと知らされています。

私たちは、平穏な中でも、自分の小さな不安を十分にコントロールできません。不安をなだめて、落ち着くことはとても難しいことなのです。私たちの生活において、不安と戦うことが常にあるからこそ、聖書はそのことに「耐え忍んだ人たちは幸い」だと言います。

聖書の中心的なメッセージのひとつは「あわれみ豊かな神は生きており、信頼する人々に恵みを与えてくださる」ということです。どんな状況の中でも、神のあわれみを期待して生きるように、と神は語り続けます。

私たちの不安は、私たちの内側に潜んでいるように思います。しかし、期待すべき恵みは外から来るのです。神から来ます。自分の内側ばかり見つめて行き詰まるとき、そんな自分をあわれむ神へと期待して頂きたいと思います。忍耐しながら、期待するということもあります。人間の万策尽きても、あわれみによって助けを与える神を知るゆえに、信仰者はその神に祈ることをやめません。そのような期待の仕方を知って頂きたいのです。

不安と戦っている方々がいますなら、どうぞ、不安を踏み越えて、外からのあわれみに期待して頂きたいのです。冒頭の聖書の言葉を信じて期待することで、外から来る平安を得て頂きたいのです。