人間とは良いものなのか、それとも悪いものなのか、私たちの中でこの点について明確に答を持つ人は少ないのではないでしょうか。
「人間とは何か」という点について、聖書は“悪いもの”であると言い切っています。神は聖書を通して人間に対し、神を愛し、人を愛することが最も重要な教えであると伝えました。しかし、人間はそれができない心の傾きを持っている、と16世紀のある教会の文書では言っています。坂の上に置いたボールが、必ずその坂を転がり落ちるように、人間の心には「生まれつき、神と隣人を憎む傾きがある」(ハイデルベルク信仰問答 問5)ので、どうしても神になど信頼せず、人に対しても良くない思いを抱いてしまうのだ、と言うのです。
神に背く性質を、聖書では「罪」と言います。聖書を読むとたびたび、「あなたもまた、罪人です」と語りかけていることを聞くことになります。かつて第二次大戦後に多くの人が教会を訪ねた時代、まだ日本語が上手に話せない宣教師の方々から開口一番、「アナタハ ツミビトデス!」と言われ、とても嫌な気持ちで教会を後にしたという、半分笑い話のような経験を教会の先輩から聞きました。確かに嫌な言い方ですが、聖書の教えの中では大切なことだという意識ゆえに、宣教師の皆さんは真っ先に伝えたのでしょう。
時代は違いますが、わたしもまた学生時代に、聖書を読み始めた最初に「全ての人は罪を犯した」ということばに出会い、とまどいました。良い人間性を得たいと願って教会に来たのに、こんな言われ方したくないと思いました。嫌な表現だと感じると同時に、特に神に背くことがそんなに悪いことなのだろうか、と疑問にも思いました。信仰の先輩たちは、「神を知らないことも、神に背くことと同じことだと言えます」とも言われ、それも納得できませんでした。
しかし、「心が神と隣人とを憎む傾きがある」という指摘は、当たっていると思いました。良い生き方をしたいと願っているのに、他人のちょっとした言葉や振る舞いに、不愉快さや怒りを感じることはたびたびです。「気にしなければ良いのに」と、自分に言い聞かせても、何度も同じことでした。聖書の指摘を頭の片隅にしながら、いつの日かわかったのは、他人へのそのような思いは、自分が良いと感じるかどうかによって生じるのだということでした。自分自身の受け止め方が、他者の良し悪しを判断する基準なのです。おおげさですが、まさに自分が神に背いて、自分自身の判断が神のような絶対的なものとしているから、他者を悪と決め付けてしまうのだと、わかったのです。
残念ながら、私の心に確かに傾きがあるのです。しかし、神はそのようなみじめな心を持つ人間に、そのみじめさから救う道を用意してくださったのです。それが救い主イエス・キリストというお方です。どうぞ、「心の傾き」のみじめさ、悲惨さからの救いの道を、聖書を道しるべにして、知って頂きたいと思います。