2011年5月19日木曜日

心の傾き

人間とは良いものなのか、それとも悪いものなのか、私たちの中でこの点について明確に答を持つ人は少ないのではないでしょうか。

「人間とは何か」という点について、聖書は“悪いもの”であると言い切っています。神は聖書を通して人間に対し、神を愛し、人を愛することが最も重要な教えであると伝えました。しかし、人間はそれができない心の傾きを持っている、と16世紀のある教会の文書では言っています。坂の上に置いたボールが、必ずその坂を転がり落ちるように、人間の心には「生まれつき、神と隣人を憎む傾きがある」(ハイデルベルク信仰問答 問5)ので、どうしても神になど信頼せず、人に対しても良くない思いを抱いてしまうのだ、と言うのです。

神に背く性質を、聖書では「罪」と言います。聖書を読むとたびたび、「あなたもまた、罪人です」と語りかけていることを聞くことになります。かつて第二次大戦後に多くの人が教会を訪ねた時代、まだ日本語が上手に話せない宣教師の方々から開口一番、「アナタハ ツミビトデス!」と言われ、とても嫌な気持ちで教会を後にしたという、半分笑い話のような経験を教会の先輩から聞きました。確かに嫌な言い方ですが、聖書の教えの中では大切なことだという意識ゆえに、宣教師の皆さんは真っ先に伝えたのでしょう。

時代は違いますが、わたしもまた学生時代に、聖書を読み始めた最初に「全ての人は罪を犯した」ということばに出会い、とまどいました。良い人間性を得たいと願って教会に来たのに、こんな言われ方したくないと思いました。嫌な表現だと感じると同時に、特に神に背くことがそんなに悪いことなのだろうか、と疑問にも思いました。信仰の先輩たちは、「神を知らないことも、神に背くことと同じことだと言えます」とも言われ、それも納得できませんでした。

しかし、「心が神と隣人とを憎む傾きがある」という指摘は、当たっていると思いました。良い生き方をしたいと願っているのに、他人のちょっとした言葉や振る舞いに、不愉快さや怒りを感じることはたびたびです。「気にしなければ良いのに」と、自分に言い聞かせても、何度も同じことでした。聖書の指摘を頭の片隅にしながら、いつの日かわかったのは、他人へのそのような思いは、自分が良いと感じるかどうかによって生じるのだということでした。自分自身の受け止め方が、他者の良し悪しを判断する基準なのです。おおげさですが、まさに自分が神に背いて、自分自身の判断が神のような絶対的なものとしているから、他者を悪と決め付けてしまうのだと、わかったのです。

残念ながら、私の心に確かに傾きがあるのです。しかし、神はそのようなみじめな心を持つ人間に、そのみじめさから救う道を用意してくださったのです。それが救い主イエス・キリストというお方です。どうぞ、「心の傾き」のみじめさ、悲惨さからの救いの道を、聖書を道しるべにして、知って頂きたいと思います。

2011年5月3日火曜日

わたしはよみがえりです。いのちです。

4月24日は、イースターと呼ばれる、教会にとって一年一度の特別な日曜日でした。救い主イエス・キリストの復活を祝う日です。この日の午後、多くの教会は墓地で墓前礼拝をいたします。多くのキリスト教会の墓石に、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」という主イエスの言葉が刻んであるのを見ます。

信仰が与えられてから、私は一年に何度か墓地を訪れるようになりました。イースターの礼拝だけでなく、納骨をするためです。納骨のときには、墓前礼拝のような喜びはありません。親しかった仲間の遺骨を収めるので、喜びでなく、むしろ悲しいのが普通です。しかし、悲しみだけでない、という気持ちもあるのです。なぜなら、主イエスの言葉の恵みを思うからです。

多くの教会の仲間の死を見てまいりました。そのたびごとに、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という恵みが、信仰者すべてに与えられているのだ、と迫ってきます。人間はみな、この地上の生涯の終わりに死を迎えます。キリスト者も同じです。しかしキリスト者には、信仰によって主イエスと共に結び合わされて復活し、天の御国に入れられる、という希望があります。地上の死が終わりでないのです。たましいは常に神の御手に守られています。そして、私たちの体も復活し、御国に入れられる時があるという希望を信じているのです。

私自身、信仰に導かれてすぐの頃は、この言葉の実感に乏しいことでした。しかし、多くの信仰の仲間(先輩)たちが、地上の死を迎える苦しさや恐怖の中で、「私は信仰によって、イエス様と共に生きているから、苦しい重荷をイエス様に担っていただいているから、大丈夫なのですよ」と語られ、「みんなと地上での別れるのは寂しいけど、天国にイエス様とともに置かせていただく希望を、今、味わっていますよ」と語られました。病気を得て、弱くなる中での言葉でしたが、その聖書の言葉を信じているというだけで、これだけの希望をもって雄々しく生涯の終わりを迎えるおじいさん、おばあさんの姿に圧倒される思いでした。比較的若い方も、激しい苦しみの中でも、平安をもって最後の時を迎える尊厳さを示してくださいました。

そして、死の恐怖を越えているということは、将来の話ということだけでないのです。多くの心配ごとや、苦しいことを越えさせてくださる主イエスと今、共に生きている、という希望でもあるのです。キリスト者は、将来の天国のことを漠然と期待している人たちではありません。今、様々な困難があっても、主イエスと共に、その課題に取り組み続けることができるのだ、という確信が与えられている人たちなのです。見えない救い主を信じるという、その信仰さえも見えません。しかし、希望を持っているという確かさを持っている人たちなのです。

そのような信仰の豊かさを、多くの人に知ってほしいと願っています。どうぞ、教会をおたずねくださり、「信仰者が持っている希望について、教えて欲しい」と遠慮なくおたずねください。どこの教会でも、牧師や教会員が、救い主による希望を、喜んでお話しいたします。

2011年4月16日土曜日

いるべき場所にいない不安定さ

このたびの震災の影響により、原発に近い地域で生活していた方々は、危険回避のため、その地を離れるよう勧められています。慣れ親しんだ土地、生まれ故郷を離れることは、非常に辛いことだと想像します。

その悲しみを想像しながらも、被災地から離れた首都圏で生活している私たちも、放射能の影響を心配し、遠くへ疎開したいとの考えが浮かんでくることもあります。しかし、それが可能だとしても、どこまで行けば本当に安心できるのか、よくわからなくなることもあります。混乱しながら、ふと自分自身を見つめるならば、もしかしたら単なるエゴイズムでしか物事を考えていないかもしれないとも思います。厳しさを経験している人々のことへ思いを向けながらも、自分自身の生活を確保する都市部での生活の中、自分自身の思いが定まらない不安定さを味わうことも、このしばらくの間にたびたびありました。そのような思いにとらわれる方々が、少なからずいらっしゃったのではないかと思います。

数百年前からキリスト教会で語られ続けてきた、人間に関する表現があります。それは「人間は神の律法(=神の教え)によって、自分の悲惨さを知る」というものです。「悲惨」という強い語は、もともとは「故郷を離れていること」という意味があります。「故郷を離れ、不安定な状態であること」、あるいは「いるべき場所にいない不安な状態」ということを表しています。

ここでの「悲惨」は、人間のたましいについて、説明しています。人間は、あるべき場所にいない悲惨さがあるのです。本来のあるべき場所とは、人間のいのちを与え、人間を「神のかたち」に造ってくださった、まさに、神の御許です。もともと「神のかたち」ゆえに、神を思うことができ、神と密接な関係を持つことができるのに、自分の造り主である神から離れてしまっている状態が「悲惨」なのです。

前回、人間は「神のかたち」に造られているがゆえに、他者を助けたり慰める素晴らしさがあることを申し上げました。しかし一方、私たちはその素晴らしさを発揮できないことを日常的に経験します。どんなに善意で助けようとしても、空回りになったり、おせっかいになってしまうこともあります。残念ながら、人間の基準を用いても不完全さばかりの不安さでいっぱいになってしまうことがあります。自分の不安定さと、相手の不安定さとがかえって増幅するかのような時さえあります。

しかし、神の教えという基準に立ち返ることで、私たちは悲惨という不安定さを解消することができるのです。自分の中には不安定しかないが、外から安定を得ることができます。神の教えである聖書から、「神のかたち」である人間の歩むべき道を知ることができるのです。どうぞ、近所の教会へ足を運び、外から、確かな道を得ていただきたいと願っています。そうすれば、周囲がどんなに不安定だとしても、聖書によって歩むべき安定した道がいつも見えるのです。

2011年4月7日木曜日

「“神のかたち”である人間」

被災地の復興を願って、多くのボランティアが彼の地へ向かう姿は感動的です。いろいろな社会問題の暗いニュースが多く、しかも大災害で真っ暗になりそうです。しかし、普通の人々の中に、こんなに多くの「困っている人を助けたい」という温かい、いや、熱いと言うべき自己犠牲的な思いがあることを目の当たりにし、こちらまでうれしく、明るくなる気持ちです。

キリスト者は、「人間は『神のかたち』に造られている」と理解しています。それはキリスト教信仰を持っているか否かに関わらず、です。神によっていのちを与えられているということで、人間は全て「神のかたち」に造られているのです。聖書の中で、創世記第一章に、端的にそう言われています。

大挙してボランティアの人々が東北へ向かっている姿に、「神のかたち」に造られた人間のうるわしさが見えます。人を愛する人間、苦しみを負う人の重荷を少しでも負ってあげたいと願う人間… ひとりが尊いのと同時に互いに助け支え合う尊さがあり、その根底には、神のただしさ、神の愛を反映する存在である「神のかたち」としての人間の性質があります。

聖書を読み始めた方々より度々受ける質問の一つに、「キリスト教は性善説ですか、性悪説ですか」との問いがあります。私は「その説にピタリと当てはまらないのでしょうが、聖書で言っていることは、『神のかたち』という素晴らしい性質を持っているのに、残念ながらその素晴らしさを失わせる性質をも持っているのが人間だ、ということです」と、よく答えます。

私たちは、互いを支え合う素晴らしさも経験しますが、互いを傷つけてしまうことも経験します。私は、その原因の一つは「自分が『神のかたち』に造られている尊さを十分に分かっていない」ということにあると考えています。「神のかたち」に尊く造られている人間が、自分の存在の意味を明確に分かるのは、造り主である神の意図を知ることによるでしょう。聖書は、神についてのみ記している書物ではなく、「人間とは何者なのか」という問いについても答える書物です。教会に足を運んでくださり、聖書から「神のかたち」に造られている、あなたの尊い存在理由を知って頂きたいと思います。

2011年3月31日木曜日

「運命に縛られない」

大災害があると、「なぜこんな悲惨な出来事が生じるのか」と多くの人が考えます。天地万物は神のものだと信じる信仰者もまた、「なぜ」という問いへの、明確な答えを見出せないこともあります。ただ被災者の方々の上に、神の慰めがあるよう祈るばかりです。

キリスト教信仰には、苦しみから免れるとする積極的な教えはありません。信仰があれば不幸な出来事にあわない、ということはありません。どんなに信仰に篤い人物でも、苦しみを経験することがあると、聖書は教えています。

私自身、苦しみのただ中にあるときに、「神様、なぜこんな辛い思いをしなければならないのですか」と問いかけます。しかし、その一方で思い浮かぶ聖書のことばがあります。

「神を愛する人々…のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」

―ローマ人への手紙8:28―

「すべてのこと」の中に、「苦しみ」もあるのだと、私は自分に言い聞かせます。ですから、この苦しみにも何か意味があるのかもしれない、そしていつか後の日に、「あの厳しい経験によって、神様が私に教えて下さったことがある」と思えるようになれる、と期待するのです。

神に信頼する者は「全ては運命なのであって、その中に自分は揺さぶられているだけだ」とは考えません。「この苦しみも益に変えて下さる神がおられる」という信仰によって、自らの人生に期待をもって歩みます。全てを用いて、信仰者の人生に益を与えて下さる神の配慮を、「摂理」と呼びます。信仰者は運命に縛られているのでなく、神の摂理という恵みに支えられていると信じます。

苦しみは誰にとっても苦しみでしょう。しかし、今はわからないけれども、この苦しみも良いものに変わるのだと信じるなら、耐える力も強まるでしょう。どうぞ、苦しみや困難への不安に負けないで下さい。すべてを益と変える神がおられることへ、思いを向けてください。

2011年3月25日金曜日

「不安と戦いながら」

「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。
…主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

―ヤコブの手紙5:11―

首都圏に暮らす私たちは、この度の震災による被災地の惨状を見て、想像を絶する苦しみの中にあろう人々のことに思いを注いでいます。何かをしたくてもできない。そのようなもどかしさを覚えている方もあろうかと思います。

そして、かの地と比較すれば平穏な場での生活ですが、それでも私たちには不安があります。ガソリンや食料がかつての平常時とは違って、容易に手に入りません。これだけでも私たちは多少なりとも不安になります。ひとりの小さな不安が、ひとつひとつ集って大きくなって力が増していくのだと、私たちは店頭から品物がすっかりなくなることで、はっきりと知らされています。

私たちは、平穏な中でも、自分の小さな不安を十分にコントロールできません。不安をなだめて、落ち着くことはとても難しいことなのです。私たちの生活において、不安と戦うことが常にあるからこそ、聖書はそのことに「耐え忍んだ人たちは幸い」だと言います。

聖書の中心的なメッセージのひとつは「あわれみ豊かな神は生きており、信頼する人々に恵みを与えてくださる」ということです。どんな状況の中でも、神のあわれみを期待して生きるように、と神は語り続けます。

私たちの不安は、私たちの内側に潜んでいるように思います。しかし、期待すべき恵みは外から来るのです。神から来ます。自分の内側ばかり見つめて行き詰まるとき、そんな自分をあわれむ神へと期待して頂きたいと思います。忍耐しながら、期待するということもあります。人間の万策尽きても、あわれみによって助けを与える神を知るゆえに、信仰者はその神に祈ることをやめません。そのような期待の仕方を知って頂きたいのです。

不安と戦っている方々がいますなら、どうぞ、不安を踏み越えて、外からのあわれみに期待して頂きたいのです。冒頭の聖書の言葉を信じて期待することで、外から来る平安を得て頂きたいのです。